議論やプレゼンテーションで大切なのが、物事を論理的に考えてきちんと相手に伝えることです。このことはあらためて言われるまでもなく、初等教育から、ずっと学び続けてきたことだと思います。ところが、学生の多くは日常の感覚や社会常識の影響から、日常会話の中で論理的に考えて、きちんと伝え、議論することが抜け落ちがちです。それが学生生活や社会人生活の中でどのように表出するのか、論理的に考え、きちんと伝え、議論することが、なぜ大切なのかを考えてみたいと思います。
学校での学びを社会で生かせない?
日本の子どもたちは、小学生の時から学校の授業や先生からの教えの中で物事を論理的に考え、その考えをきちんと人に伝えることをトレーニングしています。そのおかげで、成長するにつれて論理的に物事を考えられるようになり、自分の意見をしっかりと伝えることができるようになっていきます。大人になるにつれて情緒や感情が抑制されて、論理が先行し、お互いが話の内容を論理的に理解した上でコミュニケーションすることができるようになります。
ところが、学生とのコミュニケーションでは、論理的な理解にもとづいたコミュニケーションができていないと感じることがよくあります。
例えば、台風のニュースを耳にした学生から「台風が大きいので10キロとゆっくりで、風速は30メートルを超えるかもしれません」という話をされた時、「なぜ速さの話をしているのに、キロやメートルなどの距離を使うの?」と聞くと、案外答えられなかったりします。キロは「km/h(キロメートル・パーアワー)」、メートルは「m/sec(メートル・パー・セカンド)」で、毎時や毎秒が省略されていることを説明できないのです。。常識的には、風速15メートルと風速30メートルがどの程度違うのか理解していれば、特に困ることはありませんが、小学生から学んできたはずの「論理的に考えて理解した上でアウトプットする」意識が、学生の中で抜け落ちているように感じてしまいます。些細な例ですが、学校で学ぶことと社会での常識が分離してしまっているように思えてしまいます。本来、学校で学ぶことは社会生活や日常生活につながっているもののはずなのに、です。
なので、学校で勉強したことが社会でどれだけ役に立つのかを認識し、学校の学びと社会とを切り離さないでいることが大切だと教えています。
「真実」はいくつある?
名探偵コナンの中で「真実はいつもひとつ」というコナン君の名ゼリフがあります。他方でドラマ「ミステリと言う勿れ」の中では「事実はひとつだけど、真実は人の数だけある」という菅田将暉演じる久能整のセリフがあります。どちらが正しくてどちらが間違っているのでしょうか?
私の専門である社会心理学では、事実も真実も無数にあります。これは主に社会構成主義という考え方に立った見解ですが、「社会に存在するあらゆるものは、私たちが対話を通して作り上げたものである」という考え方をします。そのため、この考え方の下では、事実も真実も「現実」という言葉に集約されます。あなたにとって嫌いなものは嫌いだし、怖いものは怖いのですが、それをほかの人が嫌いだったり怖かったりするわけではありませんよね。しかし、あなたの「嫌い」や「怖い」という現実(事実や真実)は存在するし、あなたの友人はその現実(事実や真実)を受け入れてくれるでしょう。つまり、事実も真実もたったひとつではなく、それらは対象との関わりの中で認識されるものなのです。
とはいえ、現実や事実や真実を一つにすることは可能です。それは互いに論理的に考えた意見をきちんと伝え合い、関わる人の「合意」を形成してひとつに決めることです。それができれば現実も事実も真実も一つになります。なので、与えられた情報を選択したり鵜呑みにしたりするだけではなく、自分の視点で論理的に考えてきちんと伝え、議論することが大切です。なぜなら、それがひとつの現実(事実や真実)を導き出す第一歩につながるのですから。
プレゼンが得意ですか?
経営学部には「プレゼンが得意」という学生が大勢います。授業でプレゼンの仕方を学び、プレゼンの機会も多いので、プレゼンに自信を持つ学生が多いのだと思います。しかし、議論はあまり得意ではありません。むしろ苦手だと思っている学生が多いようです。おそらく、伝える技術が先行して、本来優先すべき、「論理的に考え」の部分が追い付いていないと感じていますし、速報性や感性が優先されるSNSの弊害も少なからずあるように思います。伝えるだけでなく、論理的に考え議論できるようになるといいですね。なぜなら、現実も事実も真実も多くの人との議論を経た合意のもとでしか存在しないものだからです。
仕組みを変えられる人になろう
社会全体をより良い方向へ変えるには、論理的に考え、きちんと伝え、議論を通じて合意形成することが大切です。しかし、現状を変えようとすると起こりがちなのが、議論の中で「誰がやった?」、「誰が決めた?」、「誰のために?」といったように、「誰が」を探そうとすることです。これは個人主義的な考え方で、「誰が」を明らかにしても社会は良い方向へは向かいません。議論の対象は人ではなく仕組みであるべきです。「誰が」ではなく「何が」を探しましょう。そうすれば仕組みを変えることができるので、社会を良い方向へ向けるための建設的な話を進めることができます。
経営学部の学生は、とかく自分を責めるのが好きです。ことあるごとに「自分が悪い」と考えがちです。これは、人を傷つけたくないという思いでもあり、逆に、人に傷つけられたくないという思いでもあります。でも、そもそも自分を責めるのは、「誰が」を考えているから。考えるべきことは「誰が」ではなく「何が」なのです。
勘違いしてほしくないのですが、無責任になれと言っているわけではありません。多くの学生は、論理的に考えているつもりでも、実は感覚的に判断してしまっています。そのため「何が」と問うことが難しくなっているのです。
今日からは、ぜひ「誰が」ではなく「何が」を論理的に考えて、きちんと伝え、議論してください。それが皆さんの未来を拓く力になるはずです。